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其の2
1987年に入って、1期、2期生の中で私がその才能に目をつけた脚本家の卵たちを集めて私塾たる『ぶらざあのっぽ』の勉強会を始めた。
赤堀、荒川、影山、川崎、隅澤、立川、渡辺の七名がその記念すべきメンバーである。
この時、選ばれなかった2期生の間から赤堀の参加に異論の声が上がったことは明記しておかなければなるまい。それは一見無理のないことであった。なぜならば、当時、赤堀の脚本の腕は同期生の中でも下位にランクされるものであったからだ。
だが、現在の彼の活躍ぶりを見れば、誰もが納得してしまうにちがいない。赤堀は小山の眼力に敬意を表さなくてはならないだろう(笑い)。
勉強会には、おくれて高橋が参加した。
そして2月11日、新宿文化センターでの勉強会に無理をして参加した私が、全身の痛みで一歩も動けなくなってしまうという大事件が起きた。赤堀と立川の肩を借りて、タクシーでやっと帰宅。玄関に倒れ込んだ。
当時、私は『聖闘士星矢』『ドテラマン』『ハイスクール奇面組』三本のシリーズ構成を兼ね、月に10本の脚本を執筆せざるを得ない状況で、精神と肉体をかなり酷使していた。
検査の結果、血沈の値が210(正常値は10以内)と測定され、医師は愚妻に「きわめて重篤な状態で、夏まで保たないかもしれない」と告げた(らしい)。らしいというのは、私の耳には届かなかったからだ。
結局5月までの三ヶ月間休養を余儀なくされ、4月から開講予定の3期講座を延期せざるを得なくなった。
「オレが書かなきゃ誰が書く」などとほざいて無理を重ねていたものの、私はキャシャーンのようなアンドロイドではなかった。
「小山倒れる」に関係者が慌てたのも僅かに一週間だけで、それぞれ代役が立って支障なく制作は続行されていった。感謝。
【あんなに意気がって書いていたのに、一週間も経てば流れ出す……オレがやってたことなんて大したことじゃなかったんだ】
これが率直な感想で、大いに冷めた私は、以後、無理はしないと決意したのだが……それにしても神の御守護で夏を過ぎても命永らえ、延期していた3期講座を夏の4期講座と合同で開催した。
倒れた直後、名古屋の大学院を中退し、国分寺にアパートを借りて上京した荒川が、手土産を片手に呆然と私の枕辺に佇んでいた姿が今でも忘れられない。
彼はおそらく前途に大いなる不安を感じたことだろう。
のっぽのメンバーではこの荒川と立川が先に弟子入りした。彼らは他のメンバーに比べてフリーだったからだ。
赤堀は大学二年生、影山は幼稚園教諭、川崎は新聞奨学生、隅沢はコピーのメカニックマン、高橋はカメラマン助手、渡辺はプログラマーで、正直なところ、いきなり八人は私も抱えきれなかった。六人にはまず自分で稼ぎながら勉強を続けてもらうことにした。
そんなわけで、私が静養中、のっぽの先陣を切って立川が『聖闘士星矢』で脚本家デビューを飾り、追って荒川が損害保険協会のPRアニメ『はばたけピータン』で正式デビューした(荒川には講座で募集したプロットが採用され、『ドテラマン』が先にあるが。デビュー間もない水谷優子さんが演じたサイコーユ鬼の話)。
勉強会は国分寺の勤労福祉会館の和室で、当時竜の子プロの演出家であった植田秀仁氏(現・うえだひでひと『怪盗きらめきマン』監督)やプロデューサーの植田基生氏(現・ラディクス)や文芸の関島真頼氏(現・『マシュランボー』シリーズ構成)をゲストに招いたりしながら、和気藹々と刺激的に行われた。3&4期生からは縁あって三井が参加した。
そして、一年間の勉強期間を経て、ついに時至り、1988年1月8日、私の従兄弟が家主である自宅近くのアパート「コマキ荘」の一室に、「とにかくルネッサンス」を旗印にぶらざあのっぽの事務所を開所した。
そこは木造モルタル造りの決してきれいな部屋ではなかったが、2Kの部屋の中には、「アニメ界に新風を巻き起こせ」と己の才能を世に問う若者たちの夢が満ち満ちていた。
もしかしたら、後年、この「コマキ荘」があの「トキワ荘」に並び称される梁山泊と呼ばれるようになるかもしれない。なったらいいな。
毎年、1月8日ののっぽ創立記念日には、近くの「山田うどん」へ全員でいき、仕事も十分になく金欠病の中奮闘していた創立当時の苦行を忍んで、うどんを食べるのが恒例行事になっている。だが、その真意がわかるのは、現メンバーではもはや影山と渡辺だけになった。
現在のぶらざあのっぽはそれだけ恵まれているといえよう。初心忘るべからずである。
(つづく)
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