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其の1
初めに、『ぶらざあのっぽ』のこれまでを簡単にコソッと教えちゃおう。
1986(昭和61)年7月、私が新宿の日本テレビ音楽学院の教室を借りて開講した『アニメシナリオハウス』を母体とし、組織化した脚本家集団が「ぶらざあのっぽ」である。
全国各地から集った若き才能の中から、私が選抜した前途有為な若者たちによって組織された。
ちなみに、『ぶらざあのっぽ』という奇妙なネーミングは、私が二十代の前半、イギリスの伝承童謡『マザーグース』を模して『ブラザーノッポの歌』なる童謡詩を書いていたことによる。
ノッポとはASIA最大の脚本家の身長が194cmあったからで、当時のノッポはファーザーでもアンクルでもなかったのでブラザー。
初め、『リトルノッポ』という案も出たが、のっぽの兄弟たちという意味を込めて(長嶋イングリッシュぽい)、『ブラザーノッポ』とした。
そして組織化にあたって、「ブラザーノッポ」というカタカナ表記が角張った印象なので、『ぶらざあのっぽ』という丸いイメージのひらがな表記に変更した。
この時には、のちに領収書をもらう時苦労することなど予測もできなかった。
「ひらがなでぶらざあのっぽと書いてください」とお願いして、「はい」と答えた店員さんの多くはカタカナで、しかも「ブラザー」とのばした。
『ぶらざあのっぽ』が正式表記である。これまたちなみに、ロゴは荒川稔久の手による。
「アニメシナリオハウス」開講にあたっては、フォークデュオグループ『ニッチモサッチモ』(「シラケドリの歌」や「ポクポク仔馬」のヒットがある)の平川志郎氏の尽力により、音楽プロデューサー、細井虎雄氏(オフィスニューマン社長)の後援をいただいた。
7月から9月までの第1期講座に参加したメンバーの中に、名古屋から毎回東名バスに揺られてきた荒川稔久をはじめ影山由美、川崎裕之(筆名・ヒロユキ)、高橋義昌、渡辺誓子(五十音順)たちがいた。
続いて、10月から12月まで開講した第2期講座には、当時明治大学の雀荘部所属(USO)の学生だった赤堀 悟(筆名・あかほりさとる)をはじめ隅澤克之(筆名・隅沢克之)、立川元教、千葉克彦、山田靖智(のちに第7期を再受講・五十音順)たちが参加した。シンエイ動画で『クレヨンしんちゃん』の文芸担当となった金井浩も2期生である。三井秀樹が参加したのは翌年に開講した第3&4期合同の講座(小山がオーバーワークで倒れたため合同開催となった)だった。
三井の同期生ではのちにフジテレビのヤングシナリオ大賞を受賞し、現在シナリオライターとして活躍している信本敬子(『白線流し』など)や鳳工房の中心メンバーとなった藤本聡(筆名・さとし)らが机を並べた。
そして、松井亜弥が受講した第4期は受講者が4名しか集まらないものだったが、そこに松井がいてくれたのは私にとって幸いだった。
現在「週刊少年チャンピオン」副編集長の伊藤 純は松井の数少ない同期生の一人である。
第2期講座の終了を前に、ただ単に講座の開講のみを考えて第1期を始めた私の胸中に【若き脚本家を本格的に育ててみたい】という思いが頭をもたげてきた。
それは志高く才能に輝く若者たちとの出会いが創り出した昂揚だった。
もっと格好をつけるなら、【金よりも人を残そう】という思いに他ならない。
私にとって偉大なる道楽のスタートだった。
だが、その時、私はそれが骨身を削る大苦行になるなどとは夢想だにしなかった。
もちろん、多くの脚本家を業界に送り出す大事業になるとも予想すらできなかった。
しかし、私にはお金はなかったが、何より運があった。
食欲に負けぬ意欲と、背丈に負けぬ志があった。
(つづく)
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